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2015年7月13日 (月)

2015年7月13日

「ラブライブ!」や「プラスティック・メモリーズ」に対する批判や擁護のやりとりを何度も見ていて
ちょっと気になることがあったので、少し時間をかけて考えてみました。

「アニメ作品における『リアリティ』とはなんだろう?」と。

『リアリティ』とは、文字通りの意味を言えば現実味や現実感、迫真性を言います。
実在しないものを「そこにある」と信じさせるに足る、信憑性の高い情報をきちんと用意すること。
物語の説得力や深みを増すためには一定の『リアリティ』が必要です。

しかし、その『リアリティ』は視聴者にとって気持ち悪いものとして映ってしまう場合もあります。
えてして二次元の分野ではこれが『排除すべきリアリティ』となります。

『排除すべきリアリティ』とは、言い換えれば不都合な事実です。あってはならないもの。
創作するうえで、あるいは健全に視聴するうえで障害となるものを指します。
具体的な例を挙げて『排除すべきリアリティ』について説明していこうと思います。

二次元と三次元のアイドルを比較する際、三次元のアイドルを拒否する理由として挙がるのが
「スキャンダルを起こすから」というもの。

スキャンダルというのは不都合な事実であり、アイドルのファンなら誰も耳にしたくないものですが
アイドルの存在をより生々しくすることができる、よく言えば説得力や深みを増すものです。
つまり、創作のうえでは『リアリティ』を向上させるものとなりえるわけです。

男性ファンの存在もそう。女性アイドルの人気は男性ファンあってのもの。
あきらかに見目麗しくないものでも、説得力のあるアイドルものを描くためには必要不可欠です。
ファンに限らず、イベント運営などでアイドルを支えるスタッフにも男性がいて当たり前なのですが
二次元の世界においては男性の存在自体が不都合となりえるのです。

男性の気配があるとスキャンダルの可能性を否定できない。ならば原因をもとから断つべし。
男性の存在を消し去った世界では女性アイドルの処女性は堅固なものとなります。

「ラブライブ!」には基本的に男性が登場しません。これは劇場版も含めて一貫しています。
(穂乃果の父親のような例外もありますが、描写的に無視してもよいかと…)
本来そこにいて当然なはずの男性ファンも存在せず、μ'sのメンバー9人とその身近にいる人が
織り成す閉鎖空間のドラマとして描かれ続けています。
彼女たちに害をなす、ひいては視聴者に不快感を与えるものを可視化してはならない。
μ'sの人気を支えているはずの男性ファンは本作において『排除すべきリアリティ』なのです。

誰が照明を操作してるのか、誰がカメラを回してるのか、誰が人気を支えているのか。
「アイドルマスター」や「Wake UP, Girls!」、「AKB0048」の世界では当たり前のように描かれてる
男性の存在という『リアリティ』が「ラブライブ!」の世界では『排除すべきリアリティ』となる。

この『リアリティ』の欠如が他のアイドルアニメとの境界線になっているように思えるのです。
というより、「ラブライブ!」は『リアリティ』よりも重視しているものがあるのではないでしょうか。

アイドルアニメは基本的に、アイドルとその周辺の事象や「アイドルとは?」という命題を描くのに
注力しているのに対し、「ラブライブ!」にはその素振りがあまり見られません。
現実の(三次元の)アイドルを見ていない、そもそも目指しているところが違う気がします。

『リアリティ』の対義語として適当かはわかりませんが、どこかファンタジーなんですよね。

「ラブライブ!」の劇中で、無断で製作・販売されているμ'sのグッズを見つけたメンバーたちが
気味悪がる様子もなく無邪気に喜ぶシーンがありましたが、あれはまさにファンタジーです。
彼女たちに害をなす存在を可視化できないから、犯罪すら肯定的な要素として捉えられてしまい
結果として『リアリティ』を潰すどころか非現実性を増大させる要因となりました。
現実では、同じように無断で製作・販売していた男が逮捕されました。普通はそうなります。
(その事件が今回この記事を書こうと思ったきっかけのひとつでもあります)

「プラメモ」もある意味では閉鎖空間であり、ツカサとアイラの恋愛物語を描くうえで障害となる
『リアリティ』を消し去ったファンタジー作品なのだと思います。

SFとしての『リアリティ』を追求すると、悲劇を描くうえで必要な設定を自己否定してしまう。
重量や温度、感情表現も含めて生身の人間と見分けがつかないほど高度なアンドロイドたちが
広く行き渡っている世界なのに、メモリーだけ短命という設定にしなければならない。
他の科学レベルと同水準の高性能な、長寿命なメモリーは存在してはならないわけです。

2015年現在の科学で考察すると、長寿命なメモリーは存在しえないのかもしれません。
しかし、生身の人間と見分けがつかないほど高度なアンドロイドの存在は夢見ることができるのに
メモリーだけ現実的に考えるというのはアンフェアですよね。

個人的な意見を言えば、生身の人間と区別がつかないほど高度なアンドロイドを実現するよりは
長寿命なメモリーのほうが実現できる可能性は高いと思っています。

重量の問題から、フローターを装備しないと潜水できないという「攻殻機動隊」の設定が好きで
あれは現代のロボット技術から考えても非常に理にかなっていると思います。
ひょっとしたら現実の2029年には重量の問題は解決されているかもしれません。
でも、多くの人が見て納得できるフィクションを描くというのはSFでは大事なことです。
それがSFに必要な『リアリティ』であり、「プラメモ」に欠けているものであると自分は考えます。

三次元の世界における『排除すべきリアリティ』を忌避した人が二次元に傾倒すると考えれば
『リアリティ』を捨てた、より幻想的な表現のほうが二次元側でのウケは良いはずです。

このように線引きすると、自分は確実に三次元側にいることを実感できます。
自分はフィクションに一定の『リアリティ』を望み、『排除すべきリアリティ』もある程度許容できる。
そのぶん『アニメの都合』を素直に受け入れることができない、素直に楽しめない。

どちらが良いとは言えませんが、なんとなく損しているような気はしますね。



キャラクターへの思い入れありきで作品を評価する人とはマトモに話し合う自信がありません。
文字通り、見ている場所が違いますから。加点の条件がそもそも違うわけです。

自分は根本的に「かわいい」というものをうまく理解できていないので、「かわいい」を売りにする
アニメの見方が非常にヘタだし、必然的に評価を下げてしまうのです。
対して、「かわいい」を重視している人は「かわいい」だけで突っ走ることができます。
しかも多くの場合、キャラクターへの思い入れありきで評価しているという自覚がありません。
思い入れの否定は人格否定にまでつながるので、話し合いは困難を極めます。

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