ボーカロイドに心はあるか?論争への私見
「ボーカロイドに心や感情はあるか?」という話題が、驚くほど定期的にネット上で繰り返されています。
最初に私見を申し上げておきますと、ボーカロイドは楽器だと思ってます。
ギターやピアノと同じ楽器。もっと大雑把に言えば道具。
楽器であるボーカロイドに魂が宿る可能性は、付喪神的な考え方をすれば否定はできません。
しかしそれは信仰や期待から言うものであり、現実的な話をしてしまうとやっぱりただの楽器なんです。
心を感じるとすればそれは奏者のもの。感情が見えるとすればそれは聞き手側の受け取り方の問題。
送信側ではなく、あくまで受信側の願いが生んだもの。キツい言い方をすれば妄想です。
決して敵対的な意味ではなく、ありなしで派閥を分けるとすれば自分は『ない派』に属します。
『ある派』の気持ちもわからなくはないんですよ。あったらいいだろうなと思うし、あればそれは嬉しいことです。
しかし『ある派』の主張がどうにも論理的ではなく、肩を持つことができませんでした。
だって、『ある派』のやることといえば"調教"の優れたボカロ曲の紹介くらいなんですよ。
歌い方が生々しいからそこには心が、感情がある。わたしたちはそう感じている。そういう次元の話なんです。
『ない派』の人たちが納得する、求めている証明ではないことにまったく気付いてないんですよね。
『ある派』をひとつの宗教とするなら、彼らがやっているのは布教活動でしかありません。
「神の存在を証明しなさい」と言われているのに、神の素晴らしいところをひたすら褒めたたえているだけ。
神の存在の証明という宗教上の禁忌に触れまいと必死にごまかしてるように見えてしまうわけです。
ただ、これは避けられない流れとも言えます。存在の否定は信仰への侮辱となるわけですから。
『ある派』にとっては「心や感情がない」という発言自体が侮辱になるんですよ。
『ない派』にとっては客観的な評価でしかないものが、『ある派』には悪意として伝わってしまう。
このことに『ない派』はなかなか気付けません。『ない派』は目に見える事実を告げているに過ぎないので。
この場合、『ある派』がすべきことは「心や感情がある」という事実の証明。ただそれだけです。
反対意見を侮辱や悪意とは受け取らず、感情的にならず、論理的に証明をおこなわなければなりません。
『ない派』の人たちが求めているのは論理的な証明で、『ない派』の主張もまた論理的な証明です。
本来、ないものをないと証明するのはとても難しいことなんです。いわゆる悪魔の証明というヤツ。
「この世のどこにも存在しない」という証明をしない限りは、存在の可能性を否定できない。
神は存在するだろうか? 存在しないことを証明しない限り、この世のどこかに神は存在するだろう。
これと同じことを『ある派』が要求してきたら『ない派』は勝てないだろうと思います。
ですが、ボーカロイドを楽器の一種と定義することで『ない派』の証明は可能です。
たとえばギターやピアノの演奏を聴いて、その演奏が非常に情感あふれる生々しいものと感じたとします。
では、ギターやピアノといった楽器そのものに心や感情はあると思いますか?
おそらく多くの方は「楽器そのものには心や感情はない」「あるのは奏者の心と感情」と答えるでしょう。
ならば、同じ楽器であるボーカロイドに心や感情があると考えるのはおかしなことだと思いませんか?
同じ楽器なのになぜボーカロイドだけが特別視されるのか。特別視できるのか。
これは電子楽器の音が保守的な層に受け容れられなかった古い時代の話とは事情がまるで異なります。
あくまで私見ですが、ボーカロイドは人の声と外見を手に入れたから特別視されているのだと思っています。
キャラクターありきの商品、外見込みの楽器であるから心や感情があると信じられてしまう。
古びた人形には供養が必要と考えるのと同じように、人の姿をしたものは人と同格に扱ってしまう。
そういう土着信仰や風習によってボーカロイドに人格を認めている部分が大きいのではないかと。
もしボーカロイドが人の声と外見を手に入れていなかったら、いまほど人格を認められているでしょうか?
いや、おそらく外見の種類によっても違ったと思います。洋ゲーのキャラみたいなリアルな外見だったら?
ボーカロイドはいわゆる二次元寄りのアニメ的なキャッチーな外見だったからこそウケたのでしょう。
そういう売り方でなかったら、これほど普及し人気を獲得するにはいたらなかったはずです。
二次元キャラに人格を認めたい人たちが先にいて、そこに声優の声をもつボーカロイドが降りてきた。
受け容れられるべくして作られた神が迷える民衆の要求に合致した。カッコつけて言えばそんな話だろうと。
つまり、『ある派』と『ない派』の論争は宗教と科学の対立みたいなものなんです。歴史は繰り返す。
ここまでボーカロイドを楽器の一種と定義して話してきましたが、ほかの楽器とは明確に違うところがあります。
ボーカロイドはソフトウェアであり、ギターやピアノのような実体、人間で言えば肉体をもっていません。
つまり死の可能性をもたない、生命体として不完全な存在であると言えます。
このあたりの考え方は「攻殻機動隊」の人形遣いのくだりを参考にしてもらえばわかりやすいかと思います。
ネットワーク上に生まれた一人格であり、生命体であることを主張するものの不完全であることを自覚していて
草薙素子との同化によって死の可能性を獲得し、生命体としての完成を望んだ人形遣い。
多くの人から人格を認められながら肉体をもたないボーカロイドは近い境遇にあるのではないかと。
ギターやピアノは人間と同じように肉体を失って死ぬことができる。本来の付喪神的な考え方です。
実体をもたない、コピーがいくつもある現在のボーカロイドを同じ枠組みで扱うのは難しいことなのです。
同様に実体をもたないマンガやアニメのキャラに人格を認めている人たちだけがその壁を越えてしまえる。
二次元キャラの誕生日を祝ったり、バレンタインにチョコを送ったり、劇中で死亡したら葬式をあげてあげたり。
そう、実際に葬式をあげてしまえる人たちには肉体の死という概念が通用しないんですよね…。
「宗教だ」「信者だ」と言うと否定的に聞こえがちですが、これは宗教以外のなにものでもないと思います。
宗教的信仰を主張する人と科学的証明を要求する人が議論をすると、どうにも平行線をたどってしまう。
「ボーカロイドに心や感情はあるか?」という話題が延々繰り返される理由はそこにあるわけです。
電子的な無機質さが良いと言う人もいるし、無機質だから感情移入できると言う人もいます。
「心や感情がない」と判断したうえでそこに魅力を感じている。ボーカロイドにはそういう評価もあるのです。
一方で、生身の人間でありながら「心や感情がない」と評価されてしまう人たちがいます。
「気持ちが伝わってこない」「もっと心を込めて歌えよ」など、敵意すら感じるコメントもしばしば見かけます。
ボーカロイドと違って確実に意思のある生き物なのに心や感情の存在を認められないのはなぜか。
「心や感情がある」という当たり前の事実が否定されてしまうのはどうしてなのか。
結局は聞き手側、受信側の勝手な妄想でしかありません。「ないに違いない」と信じたいだけ。
ボーカロイドと違ってこちらは生身の人間を相手にした評価なので、より深刻な問題として伝わってきます。
誰かのさじ加減ひとつで生身の人間の心や感情が否定されてしまう。そんなことあっていいわけがない。
特定宗教の信仰の否定に留まらない、人類全体を巻き込んだ人格・人権の問題に発展します。
なのにわりと日常的にそのような評価が飛び交っていて、問題視されていません。
生身の人間であっても「心や感情の存在なんてあやふやなものだ」と主張する人もいます。
こういう人はたぶん、自分自身の心や感情の存在を否定される事態を想定したことがないのでしょうね。
生身の人体もまた楽器である、という屁理屈にも似た考え方も可能ですがその人体は奏者自身でもあります。
この場合、楽器と奏者を切り離すのは不可能なのでボーカロイドの話とはまったく噛み合いません。
他人の肉体を楽器とするなら話は別ですが、かなり猟奇的な案件になりそうなので言及は避けましょうか…。
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