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2023年4月18日 (火)

2023年 冬アニメ期間のこぼれ話

冬アニメ寸感の欄外に載せようかな?と書き溜めていた話題が結構な量になってしまいまして。
かといってTwitterに投稿するには長文すぎるので、いくつかまとめて独立した記事にしてしまおう!というのが
今回の記事の要約となります。一応アニメに関連する話題でそろえているつもり。



現在劇場で絶賛公開中の映画「シン・仮面ライダー」。自分もちょっと関心をもっている作品です。

制作中のインタビューで庵野秀明監督は「ノスタルジーは捨てたくない」という印象的な発言をしていました。
50年前の初代を踏襲しつつ新しいものを、しかし当時見ていたイメージを捨てたくはない。
オタクが求める原作愛、あるいは原典の再現度。ノスタルジーという言葉に答えを見た気がしました。


ただ、ノスタルジーの扱いって難しくて。やり過ぎれば古臭いものになってしまいます。
実際「シン・仮面ライダー」の懐古主義的な部分を「ダサい」と酷評するレビューも見かけました。
ファンというのはワガママなもので、なければないで叩くし、あればあったで叩くし、全員に賞賛されるような
新旧の調和を実現するのは(理想ではあっても)なかなか難しいことだろうと思うのです。

完成に先駆けて「ノスタルジーは捨てたくない」という理想が表明されたのは、どういう方針で作られたものか
あらかじめ理解したうえで見れる、作品を鑑賞するうえでの良い予備知識になったのでは。

あんまり多弁でも言い訳がましくなってしまってアレですけどね。評価の方向を絞ってしまうおそれもあるので。


今後リバイバル作品を見るうえでノスタルジーという言葉がひとつの手掛かりになりそうな気がしています。
いま制作するなりの新しい映像のなかで、捨てたくないノスタルジーはどこだったのか。
そのノスタルジーには自分にも理解できる価値があるのか。気付かされることが意外と多いかもしれません。



ゲームやアニメのような比較的歴史の浅い、当時を知っている生き証人がたくさんいるサブカルチャーにおいて
歴史的事実と異なる記述をしたり、「そんな事実はなかった」と否定する人が最近どうも目立ちます。
いま話題になってるあの書籍に限った話ではなく、匿名掲示板なんかでもそんな暴論を見かけるので。
そして、個人的に問題視しているのもどちらかといえば後者のほうだったりします。

世代的に知らないから、令和現在の常識とは異なるからといって、歴史上に存在しなかったことにはならないし
存在したことまで否定してしまうのは無知で許される範囲を超えていると思うんですよね。

ビデオゲーム史くらい注目する人が多い分野なら、修正しようとする力も大きく働くのでまだよいのですが。
ネットミーム化するくらい歪曲の力のほうが大きくなってしまうと手の施しようがありません。
事実とは異なる内容で、「そのほうがおもしろいから」という理由で定着してしまう。娯楽の恐ろしい側面です。


余談ですが、「データを用いると恣意性に際限がなくなる」ってどういう意味なんだろう?と疑問に思っていて
その直後、某所で「深夜アニメをテレビで見てる人は絶滅危惧種、視聴率0.何%だから」というコメントを見て
なるほど恣意性ってこういうことを言ってたんだな、と実例を見て納得できました。
自分が知る限り、その0.何%って数字は20年以上変わっていないと思います。ネット配信の影響でもないです。



とあるニュースソースが見出しに『作画アニメ』という表現を用いているのを見て、表面上は褒めているようで
貶しているも同然なのでは?と、記事で紹介されている作品のファンでもないのに不快感を抱きました。
だって、まるで「作画しか見どころがない」と言われているみたいではないですか。

個人的には使いたくない表現ですが、『神作画アニメ』とでも書いてあればまだ印象は違ったと思います。

『作画アニメ』のほかに、特定の技術的な部分を取り上げるカテゴライズってあるんですかね?
たとえば『音楽アニメ』とか『脚本アニメ』とか。『音楽アニメ』はたぶん異なる意味の使われ方をしていそう。
『キャラアニメ』の対になる存在として『シナリオアニメ』と表現する人はごく稀にいるようです。
言わんとすることはわからんでもないけど、どっちにしてもなんか気持ち悪い表現だな…って率直に思います。



いわゆる『異世界』は中世ヨーロッパがベースになっているという前提で「実際の中世には○○はなかった」
ケチをつける識者をたびたび見かけますが、的外れな指摘ではないかと思っています。

現在さまざまな作品で描かれている『異世界』ってドラクエやウィザードリィなどをベースにした『中世風』の
RPGを源流にもつファンタジー世界
であって、中世を下地にしているわけではないんですよね。
「実際の中世にはステータスウィンドウや鑑定のスキルはない」と言えばわかってもらえるでしょうか。

もっと言えば、現在のそれは『共通認識の異世界』として新たに構築された独自の世界観になりつつあります。
オリジナリティを捨てた、誰もが自由に利用できるアセットみたいな扱いを受けているように思えます。
独自の設定を考えるのは大変だし、考えても伝わりにくいし、共通認識に頼れば説明を省けてわかりやすくなる。
実際の中世の事情に精通している人は稀で、共通認識になりえなかったという悲しい事実でもあります。

『共通認識の異世界』を利用するか忠実な中世を描くかは、作品の良し悪しを決定付けるものではありません。
ツッコみどころがあってもおもしろい作品はおもしろいし。ツッコみどころしかない作品はダメですが…。



アニメにせよドラマにせよ、視聴者は自身の人生とは縁のないテーマほど娯楽にできるのかもしれません。
代表的な例がハリウッドのアクション映画。誰も経験したことがない非日常的な出来事であるからこそ大衆的な
娯楽になりうるし、ドキュメンタリー性の強い作品よりも人気を得やすいのではないかと。
恋愛ものも自身に縁のない話だと思っていれば楽しめる。内容が身近で生々しいと娯楽になりにくいのでは。

どうしてこんな生々しい陰惨なテーマを扱うのだろう?と思うことが、テレビを見ているとしばしばあります。

それが誰かの退屈を埋めるための娯楽として機能していたら…と思うと、ちょっと怖くなりますね。
自身と縁のない人生を珍獣のように、見世物にしている人がいたとしたら。

しかし、自分が健全な娯楽だと思って見ている作品に対して同様の感情を抱いている人がいる可能性もあります。
どうしてあんな非道徳的なものを、賛美するような作品を嬉々として、娯楽にできているのか?と。
これはもう感性の相違というか、同じ世界に住んでいても同じように感じられない仕方ない部分なのかも。



歳を取ったせいか、自分がおもしろくないと思ってるほうに世間が流れていると感じる機会が増えた気がします。
新しい感性や価値観を否定したくはないと思いつつも、やはり自分の好みには嘘をつけないというか。
「いまはこういうのが流行ってるんだねぇ~」とか言いながら、バレないようにそっとお皿を遠ざけてる感じ。

最近アニメを見ていて特に感じるのが主題歌で。「本当にこれが良いものなの?」って。
洗練されていない歌唱であったり、人間に歌わせるには過度な跳躍だったり。邪道という言い方もできるかも。

流行りの音楽って植物や昆虫のように、ひとつの世代の寿命を短くすることで進化のサイクルを早め、変化する
環境に適応しやすく、種の生存の確率を高めようとしているのではないか?と思ったりしています。
この場合の環境とは流行のこと。個人の好みを置き去りにして、来月には廃れているかもしれない一過性のもの。
だからほんの1~2年のズレでも感性や価値観の相違を、時代に置いていかれる感覚を味わいやすいのかも。

現在の流行りも10年後には『おじさんおばさんが聴く音楽』になっているかと思うと恐ろしいですね…。

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